2012.05.24

EP-4 5・21

5月21日 @代官山UNIT

Ep4521rgb


オープニングアクトはMoodmanの徐々にアッパーな場を創るDJから菊地成孔の凄まじいまでのDJセット。
フロアが暗転したところでDJブース横に登場したのは、なんと蛍光管を携えたOptrumの伊東篤宏ではないか!!
え!? やだ、うそ、ホント?? というサプライズ。。。
オプトロン奏者・伊東のことは知っていたけれど実際にそのプレイを観るのは初めて、実にソリッドなリズムを刻むピュアなノイズと光彩にぐいぐいと拗られるが如く、完全にパラレルワールドに持っていかれる…。


その平行世界への移動がPAUSE解除の正式サイン。
平行世界に29年のブランクなど存在しなかったかのようにEP-4の演奏がスタート。


確信に満ち力強く、それでいて鋭利に重いリズムパート(佐久間コウ/b, 千住宗臣/ds)。

繊細なテクニックを駆使しているのに何故か人を喰ったようなフレーズを奏でるBANANA UG(kb)のプロフェット5。

同じく嘲笑うような陽気なパーカッション(by ユン・ツボタジ)が重いリズムに絶妙に絡む、時たま打たれる鋭いメタルは嘲笑のあとに舌を出すみたいなゾッとするような諧謔の音色。

ジム・オルークが刻むファンキーでリズミカルなギターというのもレアだけれど、そこにフォギーなノイズ感のある音も絡ませてくるところは流石という感じ、もう一人のギタリスト・高井康生の冷静なギターワークとともに全体をユニファイする機能のあるサウンド。

そして佐藤薫のコンダクト/ディレクションとマシナリーでリニアなエフェクト・ヴォイスがバンド全体のスクリプトを決定付ける。。。

要所々々で登場するゲストプレイヤーは祝祭の演出という意図もあるのだろうが、それよりも必然的な理論に基づいている印象。
オリジナルメンバーの鈴木創士/kbをはじめ、恒松正敏とタバタミツル/g、中村達也/dsなどレアすぎるゲストが実に機能的に起用されている。
アンコールではDJでの参加のみとアナウンスされていた菊地成孔もステージに上がり空間を引き裂くようなサックスを披露するという展開。


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自分にとって28年ぶり(最後に観たEP-4は84年頃、雨の日の後楽園のテントだったと記憶…)のライブだったのだが、ここまでのものが体験できるとは思っていなかった。
混沌の月日と311を通過した今ここで、しかも最良なクオリティのダンスミュージックを奏でるバンドがPAUSEを解除したことの意味は大きい。
そのサウンドは(使い古された表現ではあるが)冷徹なファンクであり、当時はその斬新さにばかりスポットがあたるという面もあった。
ダークネスやケレン味の部分が影をひそめることで、ヘヴィネスがより強化され先鋭化したその音。
ヘヴィ・ダンサブルの意義と意図が2012年5・21になってやっと心身でエッセンシャルな波形として理解できた。
時間概念が錯綜する、やはりここはパラレルワールドであり過去と現在がアグリメントする。。。


web DICEでの伊東篤宏との対談の中で佐藤薫が「ポスト311/原発とEP-4のPAUSE解除には直接的な関わりはない」とやや煙に巻くように話していたがアンコールのセットリストに加えたのがあの曲。。。

カヲルはやはり策士であるとともに諧謔者でもあるのだ、シリアスでクールな諧謔者。


EP-4の今後の展開も気になるところだ。
しかしそれ以上に、なぜこのタイミングで約30年の「一時停止」が解除されたのかを深く考えなくてはならない。


【セットリスト】
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※facebook・Tomohisa DrTommy Kawanoさんのアルバムより転載。

あの頃、街には100円均一ショップは無かった。

バブルという異形の経済形態が産出した「審美眼」がある。
しかし、それは現在、完全に終了したイデアでありそこに留まることが許されないという現実を反映しつつ鳴らされる音楽を聴いた
5・21

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2012.05.16

渋谷慶一郎ピアノソロコンサート at 原美術館

5月12日 @原美術館・庭園

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「ピアノとコンピュータによる庭園でのソロコンサート」
ということで、かなりミニマルなものを想像していたのだが…

どっこい、これほどの豊穣な音響空間になるとは……!!
今まで使ったことのない感覚を呼び覚まさせられるような体験だった。


当日は心配された雨は大丈夫だったが5月というのにやや強い北風が吹き、庭園の芝生に支給されたビニールシートを敷き座っているとかなり冷え込むシビアな環境。
たまたま整理番号も若いものだったのでピアノの鍵盤やコンピュータのディスプレイが臨める「桝席」に着くことができた。
どっぷりと陽も暮れ、北風で身体が冷えきった頃に渋谷氏が登場。


いや、最初のいち音が響いた瞬間から大袈裟ではなく世界が変わる感覚。

予めプログラムされたコンピュータからの音響、そこに巧みな関係性で奏でられる聡明で力強いピアノ。
そして庭園を囲むように6台設置された不思議な形態のスピーカー(K-arrayというイタリア製のものだそうだ)からランダムに放出される少し鋭利なノイズが絡む。
これだけならば、それこそひじょうにミニマルなイメージなのだけど、そこは都心の中の古い邸宅跡地の庭園。
コンサートが始まる瞬間まで意識しなかった風の音や木々のざわめき、遠くから聞こえてくる電車の運行音など都市ならではのジャミング音。
それらが何とも表現し難い拡がりと容積(?)を創りだしていく。。。無限の広さ・大きさを持つドームにいるような。
「ピアノの音は真上に…」というイメージで、これはフェスなど通常の野外ライブで大地とパラレルに=横方向に拡散していくものとはまるで違った。
音の行方を確認するように見上げれば弱々しいが確実に煌めく星の光がある、どんな合理的な考えの持ち主でもこの「音楽の神性」を感じずにいられないだろ、というような。。。
本当に寒くて凍えるような気温なのだけどそれすらもある種の演出なのでは、と思えてくる。
やっぱり「神のドーム」にいるような感覚。

途中、寒さのせいなのか都会の小さな森の邪気のせいなのか解らないが(笑)コンピュータのトラブルなどもあった。
が、それすらも全て広大な予定に組み込まれていたもののように思えたりして。。。

演目は最新作『ATAK018 Soundtrack for Memories of Origin Hiroshi Sugimoto』(現代美術家・杉本博司氏の活動を追ったドキュメンタリー映画『はじまりの記憶』サウンドトラック盤)からの曲を中心に、コンピュータレスでのピアノソロ曲(それも渋谷氏の携わった映画関連のものばかり)やバッハなどが演奏された。


こういう音世界があるのかぁーと感銘を受け、聴覚だけではないく全感覚と、さらに未知の感覚すら使って「音」を受け入れるというコンサートだった。

いや、本当に自分の鑑賞した過去数年のライブ、コンサートの中で最高の時間だったぞーっ!!!!


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2012.03.29

BRDG#5

3月10日 @渋谷WWW

Playingaoki

少し時間が経ってしまったが、この聴覚・視覚に強烈なインパクトを与えてくれたイベントのことを。

震災から一年という祈念の日付が変わる時間帯にスタートしたイベント。
渋谷の元・地下シアターという場所での光と音のエクスペリメント。

メインステージは激しいストロボワークと鋭角なリズムで押すDUB-Russell (VJ: Daihei Shibata)で幕を開けた。
こちらの心身と感覚をウォーミングアップする感じで視聴していた。

日付が311に変わり一時間ほどして…さり気なく始まった渋谷慶一郎氏と池上高志氏の久しぶりの『filmachine』のライブセット。。。

これは、ライブ・アクトという概念を逸脱した経験だった。

ある意味で、音楽という設定を超越した「別モノ」という捉え方をしたオーディエンスも多かったように思えた。
しかし、あくまでも音楽というものを構成する「時間」「空間」「運動性」を再生成するメタ・ムジークなのだということがジワリジワリと(そんな悠長な感じではなかったが)伝達してくる音響空間だった。


渋谷氏が創り奏でる(?)音──。
「音と聴覚の関係性」を単なる感覚的なものとしてではなく周波数原理にまで還元し再生・再構成するその音。

東京大学広域科学専攻教授の池上氏がそこにシンクロナイズさせる「複製」と「進化」をテーマにした生命理論の実験映像。

それらを視聴することはまさしく「神域との対峙」という感覚だった。
身体に浸透し一瞬強烈なインパクトを与え後方に通過する高周波と低周波、そして視覚から脳に焼き付くサイバネティックスな映像。

短くはない自分のライフタイムに於ける未知の体験だった。。。

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その後、メインとラウンジ(eli walksなど)を徘徊したりドリンクで感覚を調整をしたりしていたがfilmachineの余韻から抜け出ることが難しかった(笑)。

3時前からメインアクトのMark FellとMatt SteelのデュオSNDを観た。
実はまだ余韻が抜けきっておらず…その鋭利でアディクティブな音を冷静に聴けたのは終盤になってからという誠にもったいないことを。。。


音源では慣れ親しんだAOKI Takamasa (VJ: Tetsu Kondo)の多層的なグルーヴは心地良く、まるで緩衝材のようでやっと均衡を保つことができた感じだった(そんな表現もどうかと思うが……)。


という感じで、、、渋谷+池上両氏のfilmachineの衝撃波に持って行かれた感の一夜だったが、それは当然のようにヘヴィネスとかダークなものではなく(音響としての凄味はあったが)極めて聡明で純度の高い感覚器官への施術というイメージだった。

当日の映像等はこちら。

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2012.03.09

repetition and traffic. (反復と交通)

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たまには閑話休題という風に【自動筆記】しよう。


■大きな前提として:追想/懐古と、日常生活という文脈の中での「追想/懐古との落差や相違」すら見出す暇(いとま)がないという「今のプレゼンス(日常生活)」。

●月日は百代の過客。。。最近は「交通」に興味と思考が向いてる。
 例えば、長距離列車の食堂車と、A地点とB地点の地面を分割(分断)して輸送する航空という媒介、などのわかりやすい対比。。。

と同時に、というか同階層的に…
●反復:ビートの時間的拘束(時間的契約)、、、生命としてのビートとの快楽的同調と身体的反目など絡め、広めな視野で…(反復は追想/懐古でもある)。

▲歩行〜鉄道という二次元的な移動と航空という三次元移動、そしてそこにフィルタリングする時間という共通認識。
それを今のインターネット社会や、それをスタンダードとするコミュニケーションにそっくり投影するという簡単な思考ゲームから色々とヒントを得たりしている。

▲交通の持つスピード感、反復の中(一番身近な例は心臓の鼓動)で生活する私たち。
交通と反復という二つの概念の協調・親和、またはそれがもたらす病理…。

▼継続的な社会システムの基盤が危うい「今」に至る過程にもこの「交通と反復」の「協調・親和・病理」はおおいに関係のあるものだ。
「交通と反復」は、土地・建築・バブル経済・エネルギーインフラ etc...へと思考を拡大させてくれる。
ネット社会のフロート感覚や、例えば本質的で重要な言語の(=「絆」云々などの)異様な早さでのシミュラークルなど、、、また明確に提示された(はずの)新たな自然との共生関係などなど∞。。。

◆まったく考えもしなかった、既存のものとはまるで異なる…それこそ真に有機的な「距離(巨離)と時間」への関わり方なども考慮した生活態度や様式の必要性。。。。。。

ところで、
もうまもなく3.11から一年。

私はこのモニュメントの日を渋谷WWWで催されるとてつもなく過剰で象徴的なイベントの中で迎えることにした。

月日は百代の過客にして、
ゆきかふ年も又旅人也。


以上、【自動筆記】。


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2012.02.18

organic organization vol.1

【有機的コミュニケーションの構築】

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organic(オーガニック)の持つ語感には、温度感や動態としての存在感がある。
温度と動きに不可欠なもの、それは気体という「外部」───。

日本の近世:長きに渡る江戸時代の265年//明治維新から太平洋戦争の終結までの77年//戦後の66年。
この三つの区切りの中で〈戦後66年〉が〈江戸期〉と同じ「鎖国期間」であるという認識はあまり一般的なものではない。

しかし太平洋戦争終結からあとの期間にこの国が行ってきた独善的な政治・経済・文化・発展志向の在り方とは諸外国への「鎖国」にほかならないという見方も出来る。
島国という地理的条件もあるが独自/独善の文化・技術の異常すぎる進化という事実がそれをもの語っている。
(江戸期の産業、安定的社会システム、歌舞伎や絵画等)≒(高度成長期のプロダクツ、土建的執拗なインフラ整備、オタクカルチャー)
という相似…。
それらは極めて高度で成熟したものであると同時に「他者という概念」の欠落した「独自/独善性」に裏打ちされたものでもあった。

別な言い方をしよう。
私たちのコミュニケーション感覚とは自己を主体とするのではなく「他者を主体に取り込んだ」上で=他者をはじめから身内として扱うことで成立するという感覚だったりする。
「いや、そんなことはない。面倒で煩雑な人付き合いなんて山ほどある」と言う反論を考えるのならば日常での社会との関わりをいま一度冷静に客観的に鑑みてみるとよい。
概ね、自己が消化できない「他者」が現れた時に私たちが行うのは最終的には「拒絶」である。
または…譲歩と数値的判断という形でコミュニケーションを成立させるという麻痺・歪み───。

つまり、ここでのコミュニケーションとは「対峙」であるよりも「馴れ合い」としてのみ成立する/させるものだという自明の感覚を植えつけられている。

本来のそれは「対峙」から始まり「共和」に至るプロセスであるにもかかわらず、「対峙」はコミュニケーションの反語であるという教育・生活・認識を強いられる。

それゆえにヒトとの対話(における相手の言葉)、書籍の記述、音楽にいたるまで、それらを他者からの伝達としてではなく、あくまで自己都合に則したものへと翻訳・変換した上で感情移入をしたり解釈して完結してしまうということが常態化している。

これがいわゆる「村人的」「島国的」といわれるものだ。

ひじょうに気持ちの悪いことだ。

また、2度目の鎖国の負のサイドが顕わになりはじめたのは言うまでもなくバブル以降の80年代末から今日までだ。
その期間を「失われた◯◯」などと第三者的に呼ぶこと/認識を持つことも「外部という概念の喪失=鎖国」の現れだったりする。
そして重要なことは、「2回目の開国」とは外部から迫られた1度目のそれとは真逆に能動的に行われるべきものであるということなのだ。

その飽和点/沸点としてあの日がやっきたのだった……。

そして…
グローバル(この語の使用法と意味合いも「外部喪失」的なものの象徴)という強迫観念ではなくもっと靭やかで有効性のあるイデアが望まれていると実感する一年間、ある種の焦燥感にも似たような日々の羅列だったりした。

organic organization

昨今、オーガニック(有機的)という単語も「温かみ」「優しさ」などという情緒的で自己都合的なニュアンスとして用いられることが多く不気味に思え、私はこの言葉が好きではなかった。

いくつかのプランやアイデアを大きく軌道修正する必要が起こった。
あえてその好みではない単語をキーワードに据え行動・思考し、周囲を促すこと考えた動機は、言うまでもなく311だ。
311は「能動的な開国」へのチャンスであった。
もちろんそれがスリム・チャンスであるということも事実である。

あの地震と津波・原発事故が壊わしたものは、建物や多くの人命だけではない。
「村人的な自己主体型」コミュニケーションの様式の破壊でもあったのだと思っている。

特に「対峙」から「共和」へのプロセスを経ず、それをすっぽ抜かしで作られた原発がもたらした多くの困難な課題は、まさしくシンボリックな形として認識可能なはずだ。


決して大義名分や欺瞞に満ちた「わたしになにができるのか」みたいなものではない。
また国外との関係のみではなく、自分と自分の周囲、純粋な外界との総体的なコミュニケーションのベーシック言語に、organic organizationという冷静な概念を碧く投写することが未来への指針のひとつであると思う。


ベタベタとした癒着や粘度とは無縁な、温度感と靭やかでフレキシブルな動きを持つ有機的形態として外部と関わるオーガニゼーション……

(この項目 つづく)

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2012.01.01

the first sending of the new year, 2012.

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2011.12.29

FRONT CHAPTER/ BOOM BOOM SATELLITES

12月28日 @恵比寿LIQUIDROOM

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一年二ヶ月ぶりのBOOM BOOM SATELLITES(以下BBS)のワンマン。
その間に流れた時間の中には、奏者にとってもオーディエンスにとってもあまりにも多くの出来事があった。


抗う「対象物」が完全に喪失し概念としてのエネミーが意味を失った今、はたして「レベル・ミュージック」というものに何の意味があるのか?

デビューから一貫して「レベル・ミュージック」を標榜するBBSがその現状の中でどのようなスタンスとアイデンティティで今夜ライブに臨むのだろうか?

それは自らのアイデンティティを完全否定するものとなるのでは……

そんな思いがあったので、いささか不安定な心持ちで恵比寿に向かった。


結論的には……私の耳目からその明確な答えがライブ・アクトの内に、まだ無いと思われた。

しかし、その命題の中で、そこに重心を置き模索する「レベル・ミュージシャンの表現」は十分すぎるほど受け取れた。
いや、そうメンバーの顔に書いてあるようにさえ思えた。。。


安易に…
ベクトルを自己に向け内向すること/抽象的な(特に「希望」などへの曖昧な概念)方向へシフトすること。
今、その二つの方法がおそらく「レベル・ミュージック」の着地するセオリーであり〈末路〉だろう。

ライブにはそんな要素も垣間見えたが、それ以上にその危機感に立ち向かう姿勢が強く感じられたことは長年彼らをウォッチしてきた自分には収穫だった。
来てよかったと思ったし、そこがこのライブのエッセンスなのかもしれないとも感じられた。

特に彼らの楽曲としては異様なオーガニックさと醒めきった肌触りが同居する新曲はどれもその命題へのヒントがあるものと聞き取れたからだ。


あまりMCがお上手ではないフロントマンの川島氏が何度も語った震災に対する表現者としての姿勢と「責任」という言葉も印象深いものだった(けどあの方はなんであのような激烈な作品を生み出せるのに普段あんな感じなのだろう…、そう、氏もまた朴訥な東北人なのだよな…)。


ラストの『Stay』に関しては、気持ち的には理解できるが…。
多くのオーディエンスもそこで感情移入もするだろうし、サブジェクトとして最適な楽曲ではあるのだけれど…少し厳しめのオールド・ウォッチャーの立場から申し上げるならば
「Stayを超える次なる展開とアウトプットを見せてほしいなっ!」である。


抗うべきものを失うという感覚・状況は決して幸福なことなどではない。
それはエネミーをrecognizeできる状態よりもずっと悪しき現実だ。
そしてその状況は来年以降も逆戻りなどしないし進行していくはずだ。


来秋に発表とのアナウンスがあるBBSの新作、内容はもちろんだがどのような形態で世に出されるのかも含めて注目していたい。

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2011.12.21

2011年をふりかえる。

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今年は───
このネタは、やめようかと考えていた。
が、あえて。。。


毎年12月には自分の身の周りにあったその年の「私的三大出来事」みたいなものをブログに書くことにしている。
が、今年は春先の震災のために私的な出来事と外界で起きたことが重なり混ざり合い、強制的にリンクされ、綯い交ぜとなった一年だった。
だから、三つの出来事というような形で記述することは難しい。

当然このテキストは私的ニュアンスが希薄なものになる思われるが───それでも紛れもない「私的」なこの一年への自身の想いである。

昨年末「ソーシャルメディアを軸に2011年はより具体的な形でプラクティスがさらに広角に拡大」というような比較的明るい予測をした。
皮肉にもその「ソーシャルメディアを軸に」という部分のみが当たってしまう、ということが起きたわけだ……。


ただ、次のステップへの「脱皮」の年だったことは間違いないと思っている。


多くの犠牲をもたらした自然災害、ドラスティックな意志と価値観の変更を提案した原発事故に関する心情などは今年、このブログやTwitterでさんざん書いてきたことなので今更リピートはしない。


【犠牲と脅威からのアップデート失敗(エラー)】

それは、震災後に成されるはずだった通過儀礼に伴う「受傷の痛み」を受け入れることが出来なかったこと───。

この年が終わる今、そんな「アップデート不安症候群」の結果が極めて悪い形で定着し機能していることの方がよほど重大な悲劇なのではないかと考えている。


当初、前向きな固い意志でおこなわれるかに思えた復興とエネルギー制度を含むシステムのシフティング。
それがとても曖昧な形でなし崩し的に「終わろう」としている。

これは大袈裟な表現などではない。

近々に起こりうるであろう次の災害への対応。
その基盤となるものは、私たち人間の自然への接し方・態度・所作を大胆に変えることだと思っている。
現状では表層的な部分での対処のみが論じられており、その発想ベースとは未だに「体制と利潤の維持」という理念だ。

あのささやかな防波堤を軽々と越えてすべてを破壊した津波の光景にしろ、未だ福島から飛んでくる諸々が及ぼしつづけている影響にしろ、その発想の結果だという事実認識がそこには皆無である。

では、どういう具体的な方法があるのだろうと考え始める前段として、まず、とてつもなく徹底的な意識の改変が必要なのかもしれないというひらめきを持つことこそ、その「アップデート」のベータ版だろう。


自然に対する態度に限らずに、総体的なコミュニケーションすべての事象に「アップデート」が求められているのだと思う。

そして「アップデート」には通過儀礼としてのリスクがあり、場合によってそのダメージは震災以上に厳しいものとなりうる可能性すらある───しかしそれは次のステップに進むための受傷としての意味があるはずだ。

その傷を負う覚悟こそが不可欠なものなのだと改めて思っている。

復興に名を借りた火事場泥棒的なビジネスとプロパカンダを遂行する企業と政党の宣伝タームである「絆」に縛られたりすることなく、痛みを伴ってもおこなうべき「アップデート」こそが2012年の自分(を含めた社会)の課題だと思っている。


(そしてもう一度ここで、本年3月11日の東日本大震災で命を失った多くの方々に哀悼の意を表します。)

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2011.12.14

私的・今年の三枚。

(2011によく聴いたアルバム)

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東京に暮らし、あの地震での物理的被害はさほどでもなかったとはいえ、311以降ひと月ほどは殆どまともに音楽を聴けるようなコンディションではなっかた。
生で音を体感するライブ鑑賞など秋口まで行く気にもならなかった。
自分の音楽生活においても特異な一年。。。

毎年、嗜好や勝手な意味付けを前提にチョイスする「今年の三枚」なのだけど、シンプルに再生回数の多さで並べてみた。
嗜好や諸々な思い込みなど、あの日リセットされたわけだし…。


『id』
cyclo.

03/15発売

Cyclo

個人的な解釈/感想ではあるけれど、これは今この時代に想定し得る最強のrebel music、counter musicだと思う。
と同時に客観的な「視界」と「論理性」も提供してくれる「次なる一般性」へのベクトルも持った作品でもあると思う。
受けとり方に多様性のある音だが、自分には極めて冷静な音楽として響いた。
私的なpost-music。

震災直後の発売だったけれど、入手して聴いたのは一ヶ月もあとだった。
決して良い聴き方とは言えないのだけれど、あの状況下での極度な緊張感に妙にシンクロするもので一種の「状況BGM」としても聴きつづけた。
そして、それは今も継続している。。。
(震災がなければ単純にガツンと心地良い良質な音塊、という評価を前提にした感想になっただろうな)


『James Blake』
James Blake

03/22発売

Jb

言わずもがな、誰もが認める傑作だろう。
最も前衛的かつ普遍的なゴスペル・ミュージックであり、このアーティストの才能を120%パッキングした一枚。
もっとダンサブルな感じなのかと思ったら深い奥行きのあるトータル・アルバムだった。

前記『id』と同時期にほぼ同回数、自分のオーディオで再生されたこの音楽は、精神の均衡を維持する装置として存在していたことも事実だ。
あまり使いたくはない表現だけれど、やはり「鎮魂」をイメージする。
そのサウンド・デザインの前にある「人の声」の力(=包容力)をここまで多く授かる音楽は近年では珍しいとも思った。
音づくりも素晴らしいがpower of voxの印象が強い。

上記の全く方向性の違う2枚のアルバムがこのタイミングで発表されたことはもちろん偶然でしかない。
けれど、そのリリース時期には何かの必然を感じてしまうほど自分的に感情移入した音楽だった。


『flumina』
fennesz + sakamoto

08/03発売

Fs

猛暑の中に届いた4年ぶりのfennesz + sakamotoのコラボレーション作品。
教授が同時期に発表したalva noto氏との作品も好きだけど再生回数としてはこちらの方がやや多い。
ともに張りつめた空気感があるのだけれど『flumina』の方がニュートラルな感覚で聴いていられるからだろう。
計算されつくした2作品なのだけれどこちらの方が大胆さ(ぜんぜん適切な表現じゃない…)があるような。。。
(教授のライブ音源をベースにしているので当然なのだけれど…)

震災から数ヶ月がたち季節はめぐっても、不安は払拭されずにいた暑い夏に響く透明な音像。
なるべく穏やかに物事を考えるための背後で鳴らしておくには欠かせない音楽だった。
真夏のシチュエーションで聴く涼やかな音が単純にイイなー、だったけれど寒くなってからまた違う魅力を現してくれている今年の音だ。

────────────────────

やはり、早春にあのようなことがあったので、よりいっそう感情に作用するような音楽を聴く傾向が強い一年だった。

基本的にrebel musicやcounter musicを嗜好する自分なのだけど、今年はロック・フォーマットの音楽はあまり聴かなかったなぁ。
それが「もう有効ではない」とかいう話ではなく今はとりあえず、ちょっとそういうのは空々しいかもな……という感じでビートに違和感を感じた一年でもあった。。。
(秋頃から少し戻りつつあるけれど…)

2011年、そこで聴いた様々な音楽も忘れられない年であり、色々なことを忘れてはならない年なのだと思う。。。

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2011.12.12

分解☆渋谷慶一郎。

11月22日 @渋谷WWW

Reobsession

だいぶ日が経ってしまったが、もうひとつライブ視聴の感想を。


イベントのネーミングから主催者の意図するものは、何となく「集大成」とか「総決算」的大上段なイメージがあったけれど。。。
このライブの印象として強く受け取れたのは「現在進行形」の、まさに「LIVEな」ライブだった。

三部構成、第一部が氏のピアノソロ、第二部はトークショー、第三部はevala氏とのラップトップ・ユニット「ATAK Dance Hall」。

ピアノソロは殆ど拡声装置なしの生音に近い巧みなサウンド処理でのもの、途中にはバッハも交えるセットリストで此処が渋谷の地下室であることも忘却させられた。

トークショーの松村正人氏、五所純子さんとの鼎談は、まあ所謂、、、緩やかな幕間の余興的なものではあった(笑)けれど、それなりに過激な単語も絡めてのお話だった(この鼎談メンバーならば普通で想定内のことではあるけれど…)。

そしてADHは約80分ものロング・セット。
evala氏とのユニットが放出するその音塊は「今」「此処」で、想定され放出すべきあらゆるダンス・チューンの「概念」を一気に、高い集中力で聴かせる、というものであった。

とにかく爆音・轟音。
であるのにその音塊の隅々までが聴きとれる心地よさは身体にも脳にもシッカリと届くもの。
(おそらく今まで自分が経験したライブで一番の高音圧なものだった。いや、デシベルなどという対数をも凌駕すると言おうか……)

20111122

自分のような高年齢のオーディエンスに80分の長尺は厳しくもあったけれど、その集中力と心身を揺るがすパフォーマンスは未知の素晴らしい体験でもあった。

総じて、「音の良い」ライブだった。
WWWには初めて行ったのだけれど計算されたサウンド・システムにも感心したし、PAを担当されたzAk氏の力量にも驚かされた。
(後から渋谷氏ご本人にTwitterで伺がったのだがPAシステムのポテンシャルをリミットまで使ってのお仕事だったとの旨…)


というわけで、多角的かつ高精細な音を創造する渋谷慶一郎氏の「現在」を「Liveの極み」として体感した一夜だった。

Bar


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