2012.01.01

the first sending of the new year, 2012.

2012_web

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2011.12.29

FRONT CHAPTER/ BOOM BOOM SATELLITES

12月28日 @恵比寿LIQUIDROOM

No_offer

一年二ヶ月ぶりのBOOM BOOM SATELLITES(以下BBS)のワンマン。
その間に流れた時間の中には、奏者にとってもオーディエンスにとってもあまりにも多くの出来事があった。


抗う「対象物」が完全に喪失し概念としてのエネミーが意味を失った今、はたして「レベル・ミュージック」というものに何の意味があるのか?

デビューから一貫して「レベル・ミュージック」を標榜するBBSがその現状の中でどのようなスタンスとアイデンティティで今夜ライブに臨むのだろうか?

それは自らのアイデンティティを完全否定するものとなるのでは……

そんな思いがあったので、いささか不安定な心持ちで恵比寿に向かった。


結論的には……私の耳目からその明確な答えがライブ・アクトの内に、まだ無いと思われた。

しかし、その命題の中で、そこに重心を置き模索する「レベル・ミュージシャンの表現」は十分すぎるほど受け取れた。
いや、そうメンバーの顔に書いてあるようにさえ思えた。。。


安易に…
ベクトルを自己に向け内向すること/抽象的な(特に「希望」などへの曖昧な概念)方向へシフトすること。
今、その二つの方法がおそらく「レベル・ミュージック」の着地するセオリーであり〈末路〉だろう。

ライブにはそんな要素も垣間見えたが、それ以上にその危機感に立ち向かう姿勢が強く感じられたことは長年彼らをウォッチしてきた自分には収穫だった。
来てよかったと思ったし、そこがこのライブのエッセンスなのかもしれないとも感じられた。

特に彼らの楽曲としては異様なオーガニックさと醒めきった肌触りが同居する新曲はどれもその命題へのヒントがあるものと聞き取れたからだ。


あまりMCがお上手ではないフロントマンの川島氏が何度も語った震災に対する表現者としての姿勢と「責任」という言葉も印象深いものだった(けどあの方はなんであのような激烈な作品を生み出せるのに普段あんな感じなのだろう…、そう、氏もまた朴訥な東北人なのだよな…)。


ラストの『Stay』に関しては、気持ち的には理解できるが…。
多くのオーディエンスもそこで感情移入もするだろうし、サブジェクトとして最適な楽曲ではあるのだけれど…少し厳しめのオールド・ウォッチャーの立場から申し上げるならば
「Stayを超える次なる展開とアウトプットを見せてほしいなっ!」である。


抗うべきものを失うという感覚・状況は決して幸福なことなどではない。
それはエネミーをrecognizeできる状態よりもずっと悪しき現実だ。
そしてその状況は来年以降も逆戻りなどしないし進行していくはずだ。


来秋に発表とのアナウンスがあるBBSの新作、内容はもちろんだがどのような形態で世に出されるのかも含めて注目していたい。

111227

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2011.12.21

2011年をふりかえる。

Resolve_4

今年は───
このネタは、やめようかと考えていた。
が、あえて。。。


毎年12月には自分の身の周りにあったその年の「私的三大出来事」みたいなものをブログに書くことにしている。
が、今年は春先の震災のために私的な出来事と外界で起きたことが重なり混ざり合い、強制的にリンクされ、綯い交ぜとなった一年だった。
だから、三つの出来事というような形で記述することは難しい。

当然このテキストは私的ニュアンスが希薄なものになる思われるが───それでも紛れもない「私的」なこの一年への自身の想いである。

昨年末「ソーシャルメディアを軸に2011年はより具体的な形でプラクティスがさらに広角に拡大」というような比較的明るい予測をした。
皮肉にもその「ソーシャルメディアを軸に」という部分のみが当たってしまう、ということが起きたわけだ……。


ただ、次のステップへの「脱皮」の年だったことは間違いないと思っている。


多くの犠牲をもたらした自然災害、ドラスティックな意志と価値観の変更を提案した原発事故に関する心情などは今年、このブログやTwitterでさんざん書いてきたことなので今更リピートはしない。


【犠牲と脅威からのアップデート失敗(エラー)】

それは、震災後に成されるはずだった通過儀礼に伴う「受傷の痛み」を受け入れることが出来なかったこと───。

この年が終わる今、そんな「アップデート不安症候群」の結果が極めて悪い形で定着し機能していることの方がよほど重大な悲劇なのではないかと考えている。


当初、前向きな固い意志でおこなわれるかに思えた復興とエネルギー制度を含むシステムのシフティング。
それがとても曖昧な形でなし崩し的に「終わろう」としている。

これは大袈裟な表現などではない。

近々に起こりうるであろう次の災害への対応。
その基盤となるものは、私たち人間の自然への接し方・態度・所作を大胆に変えることだと思っている。
現状では表層的な部分での対処のみが論じられており、その発想ベースとは未だに「体制と利潤の維持」という理念だ。

あのささやかな防波堤を軽々と越えてすべてを破壊した津波の光景にしろ、未だ福島から飛んでくる諸々が及ぼしつづけている影響にしろ、その発想の結果だという事実認識がそこには皆無である。

では、どういう具体的な方法があるのだろうと考え始める前段として、まず、とてつもなく徹底的な意識の改変が必要なのかもしれないというひらめきを持つことこそ、その「アップデート」のベータ版だろう。


自然に対する態度に限らずに、総体的なコミュニケーションすべての事象に「アップデート」が求められているのだと思う。

そして「アップデート」には通過儀礼としてのリスクがあり、場合によってそのダメージは震災以上に厳しいものとなりうる可能性すらある───しかしそれは次のステップに進むための受傷としての意味があるはずだ。

その傷を負う覚悟こそが不可欠なものなのだと改めて思っている。

復興に名を借りた火事場泥棒的なビジネスとプロパカンダを遂行する企業と政党の宣伝タームである「絆」に縛られたりすることなく、痛みを伴ってもおこなうべき「アップデート」こそが2012年の自分(を含めた社会)の課題だと思っている。


(そしてもう一度ここで、本年3月11日の東日本大震災で命を失った多くの方々に哀悼の意を表します。)

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2011.12.14

私的・今年の三枚。

(2011によく聴いたアルバム)

Repose_3


東京に暮らし、あの地震での物理的被害はさほどでもなかったとはいえ、311以降ひと月ほどは殆どまともに音楽を聴けるようなコンディションではなっかた。
生で音を体感するライブ鑑賞など秋口まで行く気にもならなかった。
自分の音楽生活においても特異な一年。。。

毎年、嗜好や勝手な意味付けを前提にチョイスする「今年の三枚」なのだけど、シンプルに再生回数の多さで並べてみた。
嗜好や諸々な思い込みなど、あの日リセットされたわけだし…。


『id』
cyclo.

03/15発売

Cyclo

個人的な解釈/感想ではあるけれど、これは今この時代に想定し得る最強のrebel music、counter musicだと思う。
と同時に客観的な「視界」と「論理性」も提供してくれる「次なる一般性」へのベクトルも持った作品でもあると思う。
受けとり方に多様性のある音だが、自分には極めて冷静な音楽として響いた。
私的なpost-music。

震災直後の発売だったけれど、入手して聴いたのは一ヶ月もあとだった。
決して良い聴き方とは言えないのだけれど、あの状況下での極度な緊張感に妙にシンクロするもので一種の「状況BGM」としても聴きつづけた。
そして、それは今も継続している。。。
(震災がなければ単純にガツンと心地良い良質な音塊、という評価を前提にした感想になっただろうな)


『James Blake』
James Blake

03/22発売

Jb

言わずもがな、誰もが認める傑作だろう。
最も前衛的かつ普遍的なゴスペル・ミュージックであり、このアーティストの才能を120%パッキングした一枚。
もっとダンサブルな感じなのかと思ったら深い奥行きのあるトータル・アルバムだった。

前記『id』と同時期にほぼ同回数、自分のオーディオで再生されたこの音楽は、精神の均衡を維持する装置として存在していたことも事実だ。
あまり使いたくはない表現だけれど、やはり「鎮魂」をイメージする。
そのサウンド・デザインの前にある「人の声」の力(=包容力)をここまで多く授かる音楽は近年では珍しいとも思った。
音づくりも素晴らしいがpower of voxの印象が強い。

上記の全く方向性の違う2枚のアルバムがこのタイミングで発表されたことはもちろん偶然でしかない。
けれど、そのリリース時期には何かの必然を感じてしまうほど自分的に感情移入した音楽だった。


『flumina』
fennesz + sakamoto

08/03発売

Fs

猛暑の中に届いた4年ぶりのfennesz + sakamotoのコラボレーション作品。
教授が同時期に発表したalva noto氏との作品も好きだけど再生回数としてはこちらの方がやや多い。
ともに張りつめた空気感があるのだけれど『flumina』の方がニュートラルな感覚で聴いていられるからだろう。
計算されつくした2作品なのだけれどこちらの方が大胆さ(ぜんぜん適切な表現じゃない…)があるような。。。
(教授のライブ音源をベースにしているので当然なのだけれど…)

震災から数ヶ月がたち季節はめぐっても、不安は払拭されずにいた暑い夏に響く透明な音像。
なるべく穏やかに物事を考えるための背後で鳴らしておくには欠かせない音楽だった。
真夏のシチュエーションで聴く涼やかな音が単純にイイなー、だったけれど寒くなってからまた違う魅力を現してくれている今年の音だ。

────────────────────

やはり、早春にあのようなことがあったので、よりいっそう感情に作用するような音楽を聴く傾向が強い一年だった。

基本的にrebel musicやcounter musicを嗜好する自分なのだけど、今年はロック・フォーマットの音楽はあまり聴かなかったなぁ。
それが「もう有効ではない」とかいう話ではなく今はとりあえず、ちょっとそういうのは空々しいかもな……という感じでビートに違和感を感じた一年でもあった。。。
(秋頃から少し戻りつつあるけれど…)

2011年、そこで聴いた様々な音楽も忘れられない年であり、色々なことを忘れてはならない年なのだと思う。。。

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2011.12.12

分解☆渋谷慶一郎。

11月22日 @渋谷WWW

Reobsession

だいぶ日が経ってしまったが、もうひとつライブ視聴の感想を。


イベントのネーミングから主催者の意図するものは、何となく「集大成」とか「総決算」的大上段なイメージがあったけれど。。。
このライブの印象として強く受け取れたのは「現在進行形」の、まさに「LIVEな」ライブだった。

三部構成、第一部が氏のピアノソロ、第二部はトークショー、第三部はevala氏とのラップトップ・ユニット「ATAK Dance Hall」。

ピアノソロは殆ど拡声装置なしの生音に近い巧みなサウンド処理でのもの、途中にはバッハも交えるセットリストで此処が渋谷の地下室であることも忘却させられた。

トークショーの松村正人氏、五所純子さんとの鼎談は、まあ所謂、、、緩やかな幕間の余興的なものではあった(笑)けれど、それなりに過激な単語も絡めてのお話だった(この鼎談メンバーならば普通で想定内のことではあるけれど…)。

そしてADHは約80分ものロング・セット。
evala氏とのユニットが放出するその音塊は「今」「此処」で、想定され放出すべきあらゆるダンス・チューンの「概念」を一気に、高い集中力で聴かせる、というものであった。

とにかく爆音・轟音。
であるのにその音塊の隅々までが聴きとれる心地よさは身体にも脳にもシッカリと届くもの。
(おそらく今まで自分が経験したライブで一番の高音圧なものだった。いや、デシベルなどという対数をも凌駕すると言おうか……)

20111122

自分のような高年齢のオーディエンスに80分の長尺は厳しくもあったけれど、その集中力と心身を揺るがすパフォーマンスは未知の素晴らしい体験でもあった。

総じて、「音の良い」ライブだった。
WWWには初めて行ったのだけれど計算されたサウンド・システムにも感心したし、PAを担当されたzAk氏の力量にも驚かされた。
(後から渋谷氏ご本人にTwitterで伺がったのだがPAシステムのポテンシャルをリミットまで使ってのお仕事だったとの旨…)


というわけで、多角的かつ高精細な音を創造する渋谷慶一郎氏の「現在」を「Liveの極み」として体感した一夜だった。

Bar


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2011.10.29

james blake live.

ジェイムズ・ブレイク 東京公演
10月12日 @恵比寿LIQUIDROOM

Allowing_petal

だいぶ前に評論家の佐々木敦氏がtwitterでjames blake(以下jb)の作品はポストプロダクションでその特異なサウンド・デザインを形成しているので、ライブではただのR&Bみたいになるのではないのか…と発言されていた。
実際、なるほどなぁ…と共感してしまい、かなり早めにリザーブしてあったチケットを眺めて少し興が覚めだしている自分もいたことは事実。。。


震災の後、発売されたばかりだったjbのアルバムをひたすら聴いた。
というか常に流していた、余震の頻発する中、ひたすらひたすら。。。
癒しや鎮魂と似て非なる音。
あの独特の状況下(それは今も無論つづいている)で響くjbの音は、上手く言えないが自分を「救済」してくれるものと感じていた。


だけど、前記のような危惧(?)もあり、まあダメ元でもイイやというつもりで恵比寿に赴いく。
(ライブをこういった打算的思考で観にいくこと自体ひじょうに良くない傾向だ…)


オープニングアクトに登場したCatherine Okadaという女性がその不安を強めることとなる。
後に彼女の役柄がフロアを過度な期待から少しだけ冷ますことにより、jbの演奏をより一層アツく刺激的なものとする「逆説の冷却装置」だったということがわかるのだが…
アコースティックギターの弾き語りで極めてオーソドックなフォークソングが(リリックはときたま面白いものがあったが…)およそ30分ほど奏でられる。

少し長めの転換を経てjbが登場、新作『enough thunder』から淡々とライブは始まる。
靭やかで厚みのあるヴォイス、すべてを包み込むような唱法は素晴らしい。
しかし、これは予想していたことなので、まあ心地よく聴いている。
あぁ、あの「救済の声」だ、と。呑気に適度な感情移入などしつつ。。。

二曲目から、二人のバックミュージシャン(ギターとサンプラー、ドラムパッド)との演奏が始まると、事態は一転する。
凄い凄いスゴイ、なんだ、こりゃ…という感じ。
アナログシンセとサンプラー、ディレイやリバーブを多用し、実に凄まじいポスト・ダブステップがつづく。
そこにjbの力強く、甘くグラマラスな声がのる相乗効果は強烈なインパクトと未体験なエモーションを与えてくれる。
CDで聴き感じていた「今までにない未知の音」がはっきりと実感できる!!

こちらの身体じゅうに響く重低音、左右にパンニングされる多種多様なエフェクト・サウンドとjbの声。
攻撃的な音響の上でjbの声はさらにより一層の拡がりを持って聴こえる、響く、包む。

「そうか、包容力。いや、許容する声だ…」と強く思う。
まさに声の持つそのチカラ、声のsignificanceを痛感させられる。

本編ラストの『the wilhelm scream』は、もはやエクスペリメンタルなど足元にも及ばぬほどの未知のサウンド。
「i don't know about my dreaming anymore」というリリックがディレイで増殖されフロアを飛びまわる……。

いやはや、佐々木さんの予想は大ハズレ、とにかく驚愕、素晴らしい新たな音楽を体感しまくったライブだった。

許容する声、ではなく声が許容するパワーを持つこと。。。


※このライブに関する記述は、分析というよりごく私的感想。
震災以降、自身の生活に密着する形で聴きつづけた音、そのアーティストがその音源以上の素晴らしいライブを見せてくれたことはもう手放し状態で喝采しつつ書き散らすしかない。


set list
Set_list


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2011.10.28

raster-noton talk & presentation @ICC

未来について Vol. 4 ──未来をデザインする
2011. 10. 10

Bright_lit_minor

本来、前日深夜の渋谷WOMBでのライブを聴きにいく予定でいたのだが。。
どうせならばcarsten nicolai氏のトーク、それに短いだろうがライブもあるということなので慣れ親しんだICCに出かけることにした。

トークはカールステン氏とオラフ・ベンダー氏のドイツ人ふたり、フィンランド生まれのヴラディスラヴ・ディレイ氏。
電子音楽レーベル「raster-noton」のVIPである。

今回は同時通訳放送のヘッドセットの使用もなく通訳者を交えての形式。
しかし、ひじょうに不可思議なトーク・セッションとなった。
進行のICC畠中氏と三人とのコンセンサス、カンバセーションの微妙なズレは時間とともに大きく拡がっていった。
それは通訳によるディレイにも起因するが、もう少し根幹部分にあったようだ。。。


トーク・テーマが「未来をデザインする」ということで〈未来〉についての話…のはずだったが、どんどんズレていく。
会話が脱臼する。しまくる。。。


旧 東ドイツ(ベルリン)で生まれ育ったカールステン氏、ベンダー氏と今も社会的・経済的にその影響を強く受けるフィンランドで活動するディレイ氏である。
ことドイツの二人は、多感な幼少期を含む人生の半分以上の時間を旧体制下で過ごしてきた。
そこで想定した〈未来〉というのがまんま「壁の崩壊」であった、極めて簡潔に言ってしまえばそういうことだ。
(壁の崩壊=ハッピー・エンドではない、〈未来〉というコトバの持つホープフルなイメージに引きづられないように…)

東ドイツで物理科学を学び、それを自己昇華させ創作に変換するという活動をしてきたカールステン・ニコライ(アルヴァ・ノト)。
東西統一という変革の体感と記憶が現在までの活動のモチベーションのひとつであることも容易に理解できる。
何故に「技術」というものを「変換」し「表現」に適正なカタチで用いるのか。
それはこの国の音楽とアートの長年の大命題でもある。


同じ大戦敗戦国ながらドイツと日本のそれに対する後始末の方法と「現在」はまるで違う。
日本(とその支配国アメリカ)はとうとう最後まで自分たちの物差しを基準に測量し、この国を再構築した。
ドイツはその物差しを放棄し、周囲にsurrenderすることで(時間はかかったものの)逡巡しつつ国を再構築した。
そしてドイツは今もその逡巡を継続している。
日本は、未だに古い物差しを捨てずにいる。

このトークでMCの畠中氏の示す〈未来〉とラスターノートンの三人がタームとして使う〈未来〉は明らかに違う次元のものだった。
それはそのまま現状のドイツと日本の差異だ。

または、畠中氏が「逡巡」と「物差し」に関する認識と許容性があれば展開は変わっていたかも、だった。

目前で「壁の崩壊」という具現化される〈未来〉を見た者。
そして震災復興の進まぬ現実の前で曖昧模糊とした夢と希望をペーストしつつ口走る〈未来〉ではまるで次元は違い、会話が脱臼することも当然だ。

現象としてまるで違う分野のものだが「ベルリンの壁崩壊」と「東日本大震災(無論、核施設の惨事を含む)」はあるideaにおいては同等に扱われるべきものだ。
ドイツは痛みという代償を払い〈未来〉に進んだ。
日本は、今その薄くスリムなチャンスを手放し自らの〈未来〉を無きものにしようとしている。

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トーク終了後のプレゼンテーションという名目のライブ・セッション。
「これこそが"raster-noton japan tour"のファイナル・ライブ」との宣言後スタート。
レーベルの今回のツアー参加メンバー6人による通常セットとは別物のスペシャル!!

約30分ほどの音響はマイケル・ジャクソンのサンプリングされた声からスタート。
ポップスを解体し、グリッチ・エラーを通過させて作る音がイントロダクション。
そこに新たなエモーションを次々と、別のベクトルから追加し混ぜ合わせる。
さらにその音の塊から遠心分離機で不要物を振り払う。
それを階層状に構築する作業が繰り返される。
そんなイメージのエレクトロニカが展開される素晴らしいライブだった。


自分にとって震災以降はじめてのライブ視聴だったのだが、やはりあの空気の振動する感覚や音の伝達形態は良いものだと改めて思いもした。

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2011.09.24

entering this autumn.

この秋のライブ鑑賞。

Img_kih


ようやく、まともに音楽を聴けるコンディションになってきたのでいくつかのライブに行く予定だ。

春先の震災後にキャンセルされたイベント(Freestyle Lab Tour 2011)以来そのような気持ちにはなれないままに夏が終わって秋になってしまった。。。

【Alva Noto】
15th Anniversary raster-noton talk and presentation
10月10日 @初台 ICC
(finished)

【JAMES BLAKE】
10月12日 @恵比寿LIQUIDROOM
(finished)

【cyclo. (WWW 1st Anniversary)】
11月18日 @渋谷WWW
(予定)

【分解☆渋谷慶一郎 (WWW 1st Anniversary)】
渋谷慶一郎/ATAK Dance Hall set: Keiichiro Shibuya+evala
11月22日 @渋谷WWW
(reserved)

【BOOM BOOM SATELLITES】
-FRONT CHAPTER VOL.3-
12月28日 @恵比寿LIQUIDROOM
(reserved)


その他にも観たい案件がいくつかあるけれど、経済的にも時間的にも制約があるので。。。

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2011.09.18

an ancient capital.

20年ぶり ・ 京都。
2011.0905〜07

Overhead_skying_13

かつて若かりし頃の一時期、毎週のように通い、多くの有形無形の影響を授けられた都に。
最後に訪れてから丸20年の時が過ぎていた。

新しい駅ができてすっかり街並みも変わり、その霊性が薄まってしまったとか、古(いにしえ)の重厚さが消失してしまったとか、周囲の京都通から訊いていたが、まったくそんな風には感じなかった。
新しいアーキテクチャ技法や観念を唯我独尊たるエステティックをもって昇華しているという印象が強い。

むしろその「霊性」や「真性都市」としての佇まいはさらに強まりプログレスしたように感じた。


今回の小旅行は初めて京都を訪ねる若い者たちも同行なので、定番スポットも巡ることに。

Golden_sleep

絵葉書のような写真も撮ってみたり^^;。
昔は金閣なんてあまり好みではなかったのだけれど、お互いに歳を重ね再会してみると、若い時ほどその嫌味さを感じなくなっていたりして。。。

しかし、予想通り…関東ほど震災や放射線に関する話題は目立たないし、表層的にはその意識も薄いままですむような部分もある(単に距離感としてだけれど)。
自分はそれだけでもなんとなく少し穏やかな気持ちになれた。
実際のところは、すぐ目と鼻の先に敦賀・福井の原発銀座が在るということ、二次的な汚染は国内の何処にいてもすでに影響はあるということも忘れるほどに。。。


関西(特に往時の都や城のあった町々)を巡るたびに思うのは、木が木として在り、石が石として、鉄が鉄として在るという不変的感覚。
(なぜか関東や東北の城下町ではこの感覚は希薄なのだ)

関東圏に比べ、良くも悪くもオトコが男性的でオンナの女性性が強く、つまり人間が生々しく「人間である」というのも関西圏の特徴的なフェノメノン(好っきやねん)。

Parasitism

江戸・東京の数倍の時間、都市をやってきたという矜持とその前提としての都市機能や指向がごく自然な形で生活に密着した感覚には感心する。
関東人としては残念な物言いではあるが、やはりこの国の文化の主流は西にあり、ということは認めざるを得ない(当たり前のことなのだけれど)。


そして、かつて何度も独り、何時間も座り込んでいた場所。

Sitting_and_erect_one_yhinking

ウォークマン(当時)とメモ帳を携え、真冬の寒空の下で凍傷になりかけ、静かな音楽を聴きつつ、自動筆記で思い描くことをメモ用紙に記していた、かつてのお気に入りの場所。

あの頃、その作庭の妙から多くの情報とイメージを時間をかけて享受したものだった。

今、より退いた視野をもって、短時間に濃密な情報とイメージをレシーブする術を持つ自分を発見。
(これは年齢を重ねることとは無関係な感覚でありスキルだろう、面倒な説明は省くが…)


宿泊先のすぐ近所にあった清明神社は新しい建築でやけに軽くPOPな装いの社だったが、

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今回の京都巡りのなかでいちばん反応が強く「感応した場所」だった。


夜は毎夜、慣れ親しんだ河原町・祇園四条・三条京阪駅あたりへ。

この辺りはずいぶんと変わってしまった、隔世の感はある。。。
あの頃お酒を飲んだり、音楽を聴いたり、踊ったりしたお店はほぼなくなってしまっていた。。。

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この小旅行の少し前、五山送り火の被災地伐採木問題で「京都人の外部との接し方」云々が話題となった。
概ね、京都人は外部を拒絶することでその文化・トラディションを守っているという言説だったが、それは大きなミスリードである。
東京よりも格段の長期に渡り首都であった血統の内に染み付いたコミュニケーション感覚。
他人・外部との円滑な相互理解を得るための絶妙な距離感覚は時に、いや往々に冷淡で排他的であると判断される。
それは換言すれば現・中央(関東圏)のコミュニケーション感覚がいかに強迫に裏打ちされたベタついた馴れ合い志向であるかの裏返しであり…… (ry.........


また、近々に、さらりとカジュアルに訪れたいものだ。
紅葉の熱狂醒めた寒い時期がいいか。


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2011.08.03

a fate of concreteness.

なぜ今、抽象性が必要なのか──。

Summer_ruby

強大で想像を超える恐怖の前ではどんな言葉も気遣いも、無論優しさすらも無力であることを知ったはずだ。

思考継続を遮断する(自然界の)凶暴なエネルギーをまともに受けたことから学んだもの、学ぶべきものとは何だったのか。
(無知であることとリテラシーの拒絶・排除は、二次的に生命を奪うのだという現実も、そのひとつ。)

私たちの棲む星は、意味を喪失させるに充分なエネルギーを持っていることを知らしめた。
その後、示された道標はあまりにも漆黒すぎる闇の中でかすかに灯された明かりでは認知することもできないものだった。


私たちは言葉としての「終末」や「滅亡」は知っていても、日常生活の中にそれらを意識することは少なかった。
自身や身近な者の死など限られたケースの中にしか見出せなかった「終末」。
だがその意識を改変したのが震災と原子力発電所の事故~放射能汚染なのだ…。
それは間違いなく311以降に私たちが共有した感覚である。
「終末」がそこにあり、私たちはそれを意識しつつ生き延びなければならない。
その絶望をも超越したアポリアな共通認識を持ちつつ日常を生活しなければならないのだ。

救済や形骸化された「反原発・脱原発」の叫びではなく、エッセンシャルでプリミティブな生命体としての危機感。
その嗚咽にも似た声こそが今、有効な文脈なのだと思う。

曖昧さとは異なる「抽象性」。
その一見したところ不可思議で模糊とした「広さ」の中にこそ思考の種子は存在し、希望があるのだ。
それが良いことなのか否かはわからないが、私たちはそんな未知・未経験の認識を持たざるを得ない時代に入ったのだと思う。

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